目次

  1. カンボジアにおける教育事情
  2. 学校建設に参加
  3. LWSについて
  4. 2週間行程
  5. 1日のタイムスケジュール
  6. 村での生活
  7. プノンペンのごみ集積場にて
  8. シェムリアップ地雷博物館
  9. カンボジアの不幸な歴史
  10. キャンプの感想

 

カンボジアにおける教育事情

1953年、カンポジアはフランスから独立し、シアヌーク時代が始まった。この間政府は教育に力を入れ、全土的に教育環境の設備・充実を図り、学校教育は非常に普及・発展した。
しかし、1970年クーデターに始まるロンノン時代から混乱の兆しをみせ、多くの施設が戦乱によって破壊され始めた。これを決定的にしたのが1975年から始まったポルポト時代で、教育は破壊状態にまで追いこまれた。学校教育は全土的に中止され、教育者を含む知識人が殺され、教科書などの書籍は燃やされ、学校施設が破壌されたり、あるいは強制収容所に転用されたりした。
教育者の中には、海外に逃げたり、国境を超えてペトナムやタイで難民生活をして生き延ぴたものもいたが、その数は決して多いものではない。例えぱ1968 年に21000人いた小学校教師が、ポルポト時代の終わる1979年には2800人と8分1に、2300人いた中学教師のうち207人と10分の1になってしまっていたという事例なども報告されている。
1979年以降、内戦の続く中でも、ベトナムの支援もあり、教育の再興がはじまる。
小学校の数4700校近く、生徒数147万人、教師数42000人と、数の上では非常に現在、伸びてきているが、学校施設・教育内容のいずれも粗製濫造であることは、疑いの余地はない。
現在、人口の約2分の1が15歳以下の子供たちであり人口増加率が目下のところ2.8%と見られていることから、近い将来教育がますます逼迫するのが目に見えている。

場所:カンポジア・コンポンスプー州
学校規模:約9mx約27血3教室一棟
ブロック積みモルタル仕上げ

学校建設に参加

コンクリート校舎を建設中、到着日には基礎ができていて壁のブロックが 4,5段積まれていて、中に鉄筋が入れてあった。私たちは土間の砂利や土はこび・セメントを混ぜる土を渡す作業・ブロックの型押しなどを協力させてもらった。建設の職人たちの元、子供たちから大人まで交代しながら学校作りに参加していた。隣に国で建てている、木造校舎も並行して作業していた。

LWS (Lutheran World Service) について

LWSとは、無理益の博愛的宗教組織である、世界ルーテル連盟 “LWF (Lutheran World Federation) “の社会奉仕を担う部門である。その主な概念は、貧困と飢餓の根絶、平和と正義の確保、危機にさらされているすべてのものを保護することにある。
LWSのカンボジアでの活動は、 1979年、共産勢力クメール・ルージュの支配後に残された荒廃した地に対するNGO協会の運動の一部として始まった。1980年代、西側諸国からの開発援助が入らないカンボジアに、LWSは農業家畜の飼育、健康問題等を中心に活動していた。1995年以降は、村レベルでの地方の社会に基盤を置いた活動に方向を変えている。CDW (Community Development Workers) と呼ばれるLWSのスタッフが現地に入り、そこの VDC (Village Development Comittee) の人々とともに、村の生活改善を手がけている。LWFのレポートの中で、”CDW – Our Key to Success” と称されている。文字通り、彼らは村人とのコミューニケーションを大切にし、村の開発へ全力を注いでおり、私たちにもそれが実感できた。
今回のワークキャンプは、このLWSの支援している学校建設を体験させてもらうものであった。彼らは私たちの質問に答え、いろいろ説明してくれた。さらに、食事の世話を含むすべての世話を行ってくれた。スタッフは皆親切で楽しい人たちであり、われわれは村人との交流と同時に、彼らとの交流も行うことができた。

村での生活

私達は日本からこの村に来て、生活の違いに驚かされる毎日でした。電気が内、月と星の明かりで、夜道を歩く。水道がない、川から水を運んでくる。ガスがない、木を使って、火を起こす。裸足で駆け回る。考えてみれば、自然なことだっとような気がする。もう一つ、ごみが捨てっぱなしで汚れているのは、少しショックでした。

プノンペンでのごみ集積場にて

ワークキャンプの最終日、JLMM (カトリック信徒宣教者会:Japan Lay Missionary Movement) の女性2人に連れられ、プノンペンから少し離れた所にあるごみ集積場で生計を立てている地域を訪問した。車を降りたとたん、どこからともなく悪臭が漂ってきた。しばらく歩いていくと、今まで見たこともないようなごみの山が視界に入ってきた。その量の多さに、臭いも忘れてしまうくらいであった。子供から大人までたくさんの人々が、家族の生活を守るため、このごみ集積場で必死に者を拾い集めていた。この地域の衛生状態は、今まで眼にしてきた中でも最もひどいように感じられた。貧困や飢餓・病気から人々を保護し、生活改善していけるための支援を彼女達は地道に続けていた。

シェムリアップ地雷博物館

ここの館長の名はアキー・ラー(通称アキラ)。博物館といっても、日本人のイメージするものとは全く違い、掘っ建て小屋で、無造作に多くの地雷や手帽弾が置いてあるのみであった。しかし、それらの数は12000個余り。種類や大きさ、生産国も様々であった。これらはすべて彼一人の手で除去された物である。彼の地雷除去活動は、政府からの援助を受けず、博物館を訪れた人々の寄付金によってのみ支えられている。[※5ドルの地雷を一つ除去するのに500ドルもの経費がかかるという]。)彼がフルーランスの地雷処理屋として活動する理由は、ペトナム軍に徴兵された際に、地雷を埋めたことに対する償いだという。博物館の中には、戦争の様子をアキラ自身が絵にしたものが数多く掲示されており、一つ一つ彼は、日本語で説明してくれた。また、地雷の埋まってあるそぱを通るこどもたちの写真もあり、なんとも言えない気持ちにさせられた。今回のリーダーがこう言った。「こんなにたくさんある地雷の中で、カンボジア鵠のものは一つもない。」改めて、国と国のはざまに置かれていたカンポジアの過去をつきつけられ、考えさせられてしまった。

カンボジアの不幸な歴史

今回のワークキャンプでは、村での学校作り以外のことからも多くのものを得ることができた。そのひとつに、つい最近まで続いていたカンボジアの悲しい歴史を伝える場所を訪れることが出来たということがある。明るい彼らが裏側に抱いているものを少しだけ理解できたということ、平和であるということのありがたみを身に染みて感じることが出来たということで、大きな収穫であったと思う。

地雷博物館

アンコール遺跡群のあるシェムリアップ。この地に入場料無料で自らが撤去した地雷を展示している博物館がある。ここの館長であるアキー・ラー(通称アキラ)さんは、幼いころクメールージュに両親を殺害され、生きるために軍隊に入ること余儀なくされた。氏は軍隊での生活で1万個以上に及ぶ地雷を埋め、人を殺害した償いに、現在もボランティアで高価な金属探知機などなしに索手で地雷を撤去し、取り上げた地雷に安全な処理を施し博物館に展示している。これらの展示物は、来館者に戦争の恐ろしさ、そして今なお恐怖として残る地雷の恐ろしさを痛感させるものであるが、アキラさん自ら英語、仏語、目本語などで過酷な体験を語ってくれる。

トゥール・スレン収容所

ポル・ポトが統治した1979年までの3年8か月の間、独裁的な政治が展開され、粛清のため罪のない多くの人たちが拷問の上殺害された。トゥール・スレンはポル・ポトが敵視していた既存の教育の舞台である「高校の校舎」を転用した収容所であり、当時約2万人が収容され、ほぽ全員がその後殺害された。現在この地はその様子を伝える博物館となっており、独房や拷間のための道具が残され、拷間の様子を描いた絵や写真、殺害された人々の写真などが壁一面に貼られている。

キリング・フィールド

収容所で拷間を受けた後、人々は各地にあるキリング・フィールド(ki11ing fie1d) と呼ぱれる場所へ移送され処刑された。首都プノンペンから12kmほど離れたこの場所にあるこのキリング・フィールドには、遺体が掘り出された後の大きな穴がそのまま残っており、正面に立つ慰霊塔の中にはガラス越しに安置された遺骨を見ることができる。ポル・ポトの時代に殺害された人は300万人以上と言われ、知識人を優先的に殺害したことから教師なども9割近くを失ったと言われ、このこともカンボジアの教育を遅らせている一因なのであるこれらの施設の周りやマーケット等、人が集まるところには、地雷で足を失った人達が物乞いをしており、心が痛む。地雷はカンボジアの大地に未だ600万個以上埋まっていると言われ、現在もたびたび犠牲者が出ている。我々が今回訪れたDokPorの村やコンポンスプーのLWSの建物周辺でも安全宣言が出されたのは、わずか2,3年前のことである。

キャンプの感想

Up to you(「あなた次第」) 宮本新

カンボジアに滞在中、私がたどたどしい英語でもっとも使ったのはMaybe(たぶん)でした。二週間、私を助け、他のメンバ一を困らせたMaybeだと思う。バンコクでチケットが取れず足止めされたときも、「多分、大丈夫」と言ってメンバーを余計不安にさせたと思う。レストランでメニューを確認されても Maybeと答えていた。プノンペンのホテルで、フロントで怪訝な顔をされても私はMaybeと答え、ダブルの部屋を三人で使うことになった。今思えぱホテルの人は、「六人で泊まるなら、部屋は三ついるじゃないか。本当に二部屋でいいのか」とでも言っていたのだろう。現地のスタッフと打ち合わせをしても、何を答えるにも、Maybeを連発していた。

村のキャンプで私たちをコーディネートしてくれたのは、キムサンというカンボジア人のLWSスタッフでした。キムサンは、わたしの曖昧なMaybeに、 Up to you「あなた次第よ」と答えてくれました。いい言葉だと思いました。キムサンはよくしゃべる人でした。車で移動する時も、食事の時も、川で水浴びをしている時も、分かりやすく説明し、時に冗談をまじえてよく笑わせてくれました。ある夜、キムサン自身の話をしてくれました。キムサンの歴史は、カンボジアの復興の歴史と重なっていました。いまだ内戦の冷めやらぬこの地に国境を越え戻ってきた難民たちの支援を手始めにスタッフとして働き始めたそうです。地雷をふまないよう、兵士に襲われないよう、トラやコブラに出くわさないよう、バイクで闇夜のジャングルをぬけて、村の人たちに食料とテントを運ぴ続けたそうです。それから地雷の撤去が始まり、家を建て、水田の風景を取り戻しはじめたのはここ数年のことだという話も。そしてようやく今、村に学校が建てられようとしていると。話しているキムサンの表情は明るい。キャンプに参加するというか、わたしが一体何に参加しているのかをその時キムサンから教えてもらった。そんな村の人たちとキムサンの体験に参加しているのだと。キムサン自身がUp to youを生きてきたのだろうとも恩う。そのUp to youは、カンボジアでも帰国した今も生きいきと私の耳に届いている。地雷博物館にいくと、そこには無数の地雷が展示されていた。しかし、ひとつもカンボジア自らが作った地雷はない。かつて兵士として地雷を敷設し、いま素手で地雷を撤去しつづけるアキラ(館長さん)は言う、「人生は選べる」と。彼は、少年兵として戦争の只中を生き、外界をしらないで育ったという。ひとつひとつ彼自身の人生の物語を絵にして、言葉にして、その手で取り除いた地雷を展示し、この人もまた「あなた次第」を訪れた人に伝えているのだと思う。

村を出発するとき、パゴダに住むひとりの老婦人が、わたしの腕をつかんで、「来年も学校をつくりにおいで」と言っていた。私はMaybeとは答えなかった。それはわたし次第なのだろうと思ったからだ。

今回のワークキャンプでは、村での学校作り以外のことからも多くのものを得ることができた。そのひとつに、つい最近まで続いていたカンボジアの悲しい歴史を伝える場所を訪れることが出来たということがある。明るい彼らが裏側に抱いているものを少しだけ理解できたということ、平和であるということのありがたみを身に染みて感じることが出来たということで、大きな収穫であったと思う。

カンボジアでの2週間を振り返って 遠竹佳宏

ホントにあれで良かったのかなあと反省することがある。
ボランティアで学校の建設をすることが目的なら、日本人的な労働の仕方で私語は極力避け黙々と働く。どうせ言葉も通じないのだし、それが目的成し遂げるためには最良であり、ボランティアと聞いて最初にそういう印象を受け、覚悟をしていた。しかし振り返るとそういう「厳しい」とか「辛い」印象は全くなく、帰ってから人に話すと、一言目には必ず「楽しかった」と言ってしまう。

確かに暑かった。でも、働いていると子供が胸に手を当てて「ホット?(疲れるの意味)」と聞いてくる。「ホット」と返すと腕を引っ張って日陰に連れて行ってくれる。今思うと、やさしさ半分、遊んでもらいたいの半分だったような気もするが。
夜は何処からともなく人々が集まり、太鼓と弦楽器で踊りだす、疲れて休んでいると「タケェ、タケェ」と名前を呼ばれ、手招きされる。踊りながら「サバーイ?(楽しいの意味)」と聞かれると、多分これ以上ない笑顔で「サバーイ、サバーイ」と答えていたのでないかと思う。
疲れてへとへとなのだが、止められない、止めたくない。日本にいてこんなに楽しく踊ったり、大声で騒いだりなんてことなかったのだ。単純な踊りだ、日本で同じことをやっても楽しいと感じるとはとても思えない。わき目も振らずただ働くだけなら、きっとその場所が何処であっても、辛いと感じただけであったろう。楽しいと感じることが出来たのは、諦めていた現地の人たちとのコミュニケーションが取れたからだと思う。今日本で、明らかにクメール語よりたくさんの言葉を話すことができるのに、周りの人と心から通じ合えているだろうか?突然訪れた異国の人々に、心を開いて暖かく迎え入れてくれた彼ら、引き込まれて白らも心開いていたように思う。ほんのわずかな言葉で仲良くなれた。もっと仲良くなりたい、もっと話したいと痛切に感じ、対話できない自分がもどかしく思えた。

ボランティアということで、何かを与えるという意識で行ったつもりが、彼らのやさしい行動、そして置かれている厳しい環境から、逆にたくさんのことを教えてもらった。ホントにこれで白分たちは役目を果たしたのだろうか?これから少しづつ、自分のできることで何か恩返しが出来ればと思う。

最後にこの貴重な経験をプロデュースしてくれた、わかちあいプロジェクトと現地LWSのスタッフに感謝すると共に、これからもたくさんの人が同じような感動を味わえるよう、サポートしてくださることを願います。

カンポジアで考えたこと 佐藤圭介

10日間ずっと優しい視線に包まれた生活だった。
村についたとき彼らは初めてみる日本人を好奇心に満ちあふれた表情で見つめていた。「チョムリアップ スオ」覚えたてのクメール語を試してみるとみんな恥ずかしそうに逃げてしまう。そしてすぐ戻ってきて、まじまじとまた僕たちを見つめる。
しだいに心を開いてくると声をかけてくれるようになった。なんと言っているんだか分からなかったけど、その言葉をまねてみるとみんながどっと笑った。彼らの笑顔をみるたぴに僕は元気になっていき、心が澄んでいくようだった。
夜になると毎晩ダンスをした。日本では踊ったことなんてなかったけれど、そんなことは関係なく踊り狂った。体は疲れていたけれど楽しくってしょうがなかった。そして踊りつかれてやっと寝られるっていう時にふと思った。

「この村に来てよかったのだろうか?」
「彼らの純粋な心を踏みにじるようなことにはならないだろうか?」
「僕らが来なけれぱ素朴な平和がいつまでも続いていくのではないか?」

その思いは日ごとに増していった。折り紙をめぐって争っているのを見たとき、僕らの出したゴミをあさっているところを見たとき、なんだかひどいことをしているような気がしてきた。彼らのそういう態度は僕たちが生み出したものではないのだろうが、そういった感情を増幅させてしまっているように思えた。そして、その思ったことをメンバーにもたくさん話を聞いてもらったりして自分の中で整理していくうちに 「もう来てしまったのだから仕方がない。やれることをやろう!」という結論に至った。

小学校作りの手伝いも真剣に取り組んだし、夜には村人と夢中で踊り狂った。誰かがいれぱいつでも笑顔にしようとしていた。周りから見れぱしていることは何もかわっていないのだが、僕の中では毎目いろいろと葛藤があった。いくら自分の考える精一杯のことをしたからといって報われるものだとも思わない。でも真っ直ぐな気持ちでぶつかることしか僕にはできなかった。

カンボジアに行ったことは僕にとって本当によかったと恩うし、得るものはとても大きかった。白分がいかに無知であるかもわかりもっともっと勉強しようと思った。でも僕は全てがよかったことだとは思えない。いいこともあれぱ悪いこともある。ただ、終わってしまったことをくよくよ言っても仕方がないので、この10目間で悩み、感じたことをもっと数多くの人に伝えていきたいと思う。
最後に、彼らの幸せを心から願っています。

ワークキャンブに参加して 佐野夏弓

テレビや書籍でカンポジア(貧しい国々)の話題を、普段の生活でも少なくとも耳にします。誰もが小銭を募金した事があると恩います。
キャンプのある日、村の学校で勉強鞄が支給されました。中に、ノート1冊・鉛筆1本・三角定規1セット・コンパス1個・消しゴム1個・黒板1枚などが入っていて、それをみんなで見せ合いっこして、とても大切そうに鞄の中にしまい込んでいる。そんないじらしい子供たちがそこにはいました。
裕福な日本ではとても考えられない現象を目にして、たかが文房具で、それも1個で、こんなに喜ぶなんて…と子供達の状況をわかってはいたものの、そのギャップに私はぎこちなくなり、その場にいるのが辛くなりました。
場面は違くとも、何気なく募金したお金が、こんな笑顔を生むなんて、ここにこなけれぱ一生気づくこともないなとおもいました。
日が経つにつれ少しずつカンポジアの様子がわかり、貧困な生活、地雷、歴史、杜会と毎目が白分自心との衝突でした。そして、私は守られているんだと…その葛藤は目本に帰ってきても今だ続いています。
ワークキャンプに参加して、実際に現地へ行き、見て、感じて、援助の大切さを実感させられました。私は、これからもっともっと自分の視野を広げて、今何ができるのか考えて、行動していきたいです。そして、多くの人と共に喜ぴをわかちあえることができたらと思います。
最後にわかちあいスタッフ、LWSスタッフ(デービット、キムサン、シャネラ、セリア・ヘイン)、JLMMスタッフ(タナマチさん、カマタさん)、村の子供たち、村の大人たち、チョトさん、メンバーの宮本さん、タケさん、ケイちゃん、しほ、ゆかり、 そして自分自身に
すべての人達に
オー・クン

初めてのカンボジア 三重野志穂

学生の頃から何故かカンポジアという国に魅かれていた。何故だかは分からない。
コンポンスプーのLWSの事務所について外を眺めたとき、あまりのきれいな風景に涙が出そうになった。なんの変てつもない鳳景。ただ山があり、ぽつんと学校が建っておりその近くに、ひまわりが咲いているのみであった。しかし、工業国日本では、この当たり前とも思えるような風景を目にすることは、もうできないのかもしれない。
ドキドキしながら、村へ向かった。不安な私たちを迎えてくれたのは、日本でいう肝っ玉かあちゃんであった。どこの国も、母親は強しと思った。一番会いたかったこどもたちの姿が見当たらないなあ、と思うが先かどんどんどこからともなく子どもたちが集まってきた。恥ずかしそうにしながら。こどもたちの目は、とてもキラキラ輝いていた。物事をまっすぐとらえれる澄んだ瞳だった。
村の人はとにかくよく笑った。私が生きてきた中でこんなに笑った日々はないだろうと思うくらい、私も笑った。たわいもないことで村人は、みんなで笑いを共有していた。“なぜ、こんなにも素直に笑えるのだろう?”という疑間が沸いてきた。しかし、考えるだけ無駄なことだと思った。村人には、何のしがらみもなく、笑いたいから笑うのだ。そんな単純なことにさえも、理由を見いだそうとしていた自分が、恥ずかしくなった。
夜は毎晩、村人が宴会を設けてくれた。私は、お酒が入ると踊ることは日本ではよくあることだった。しかし、村人は、お酒なしでもハイテンション!!これには驚いた。それこそ一晩中踊り明かす勢いであった。心から私たちを歓迎してくれているのがよくわかった。本当にうれしいことであった。踊りや楽器の演奏の仕方を教えてくれ、本当に楽しい時間をわかちあえた。
しかし、このような暖かい人間性と同時に、彼らの厳しい現実を目のあたりにしたとき、私は涙が止まらなかった。私たちが滞在していたある日、LWSからこどもたちに文房具の支給が行われた。支給される順番は、経済的な面から5段階に分けわれた貧しい子どもからであった。一番貧しい子どもは、両親がおらず、同じ村の家庭が養ってくれているということだった。明るいこどもたちの笑顔の下に、このような厳しい現実が隠されており、その現実をこどもたちが子どもなりに受けとめていることをしり、自分の浅はかさを知った。
彼らに学校ができることが本当に彼らのためになるのか?そんな疑間さえ生まれてしまった。今の日本みたいに、本気で笑う余裕さえなくなる国になってしまうのでは…と。リーダーが言った。「勉強は誰にでも与えられた、平等なチャンス。それに彼らは学校を望んでいるよ」と。
日本に帰国してからは、日本の現実が待っていた。いろんなことをぱかぱかしいと思う自分がいる。でも、すべて現実。要は、自分の経験、感じたことをどれだけ大切にし、伝えていけるかである。
まだまだ、語り尽くせないほど多くの経験ができたと自負しています。このような貴重な経験の機会を与えてくれたわかちあいプロジェクトの方々、現地のLWSのスタッフに心から感謝します。また、この夏に、完成した学校を、見に行ってみたいと思ってます。

「学校って必要?」 地雷の一日も早い完全撒去を願う一人、大城ゆかり

初めの頃、肌の色の違う私達をとおまきに見ていた村の人たち。しばらくして子供達と仲良くなれた時、彼等の目の力強さにハッとして、「やっぱりナ~」と。村を見ても、モノは無いし、生活様式の違いにビックリはするが暗さ・貧しさは感じられない。人々にひしひしとたくましさを感じるからである。そこへあたまをもたげる「勉強って必要?」という疑間。ホラ、彼らは彼らの世界でもってじゅうぶん力強く暮らしているではないか。生命力に満ちている。人や暮らしぶりの変化へとつながる一面を持つ勉強が本当に必要?
村の生活のなかぱにプノンペンヘ戻り、ポルポト政権下時代に刑務所として使用された学校や処刑された遺体が埋まっていた場所へ行った。慰霊塔に安置されたほんの一部であろう遺骨もみた。その時代に、西欧の影響をもつ者や僧侶、医者、教師、技術者等の知識人のほとんどが虐殺された事実を強烈に知らされた。いくら言葉で説明されても“そんな~、そんな数、人の手で殺すなんて現実にできるわけ無いじゃん!限界というものがあるでしょうに”そんな思いがどこかにあったが、おびただしい数のガイコツや写真などを見て初めて、ようやくカラダで納得した。
この国は現在も、とうていまともな状態ではない!
27歳の私が1才~3才のとき、そういう人たちはごっそり国から消された。(想像…最近なんだよな~) 20年にわたる戦争で男性も死にすぎてしまった。そんな中を成長していくのはなんて不安だろう。それでもなんとか成人した私と同世代くらいの人たちは、頼りないなりにも、他の大人達と必死に国を担っていく人材を育てているところなのであろう。何か事態が起きた時、武力ではなく話し合いに持っていく力も早くつくといい。(ん、日本もか?)
村や人々の様子で私が見たものは、とある一面。私達といる時は笑顔でもそうじゃない顔があるかもしれない。今は生活できていても本当に苦しい時期があるかもしれない。(貯蓄をして備える考えがなく、借金をドンドン重ねてしまう人も地域によっては多いとか。) 超貧乏な人や病気な人っていないんだな、という気もしたが、一度、五才くらいの子どもが自宅奥で点滴を受けている場面に出会った。聞くと、父親の手によってしているらしい。驚いた。〈医者がいないのか?入院費用がないのか?衛生面で心配はないのか?知識は十分なのだろうか。) 私が接することのできる人は、外や家の表に出て来られる元気な人であって、村を見回ったとしても、パッと目の届くその奥に弱い立場の人が存在しているのかもしれない。村よりも逆にプノンペンやその郊外で、戦争が終わった後でも国は荒れて、杜会は不安定で、貧困が広がっているのを感じた。見えている状態より、まだまだ危ういバランス状態の国。人の手により大きく壊されてしまった国。学校要らないなんて言う訳無いか。
実際私はなんだかんだ言っても学校を作りに行った訳だが、電気も風呂もないナイナイづくしの生活の中で見つめてみたかった疑間。日本にいるよりわかりやすそうだと思った。“色々欲もでて幸せ感が味わいにくくならない?” 父日く「…資源も何も無い国(日本)が生き残るには、必要」。まず他国に脅かされず国が存在していく為には構成員の個人が知恵と力をつけないと。勉強は効果が大。国単位の話はそのまま一個人の存在へ。知識は生き抜く為の武器。在り方の選択も可能となろう。小さい頃聞いた言葉もやはりあの国で初めて生きた気がする。「か~っ、勉強したくなった!」
ひょなんな事から出会ったカンボジア!あんなにも人を葱きつける魅力にあふれている。お互いの良い面を補い合い、反面教師になり、手段(勉強)に振り回されず、使い方を誤らず、共に豊かな国へと模索し、歩んでいけるといい。(疑間が和らいでも、矛盾に対する悩みは続く一…)