キボンド難民キャンプボランティア派遣 報告書

2000年11月20日 猿田 佐世

はじめに

私は2000年7月末から10月末までの三ヶ月間、タンザニアにあるキボンド難民キャンプ(ブルンジ難民のキャンプ)でボランティア活動を行ないました。初めてのアフリカ。初めてのタンザニア。初めての難民キャンプ。初めて日本人の一人もいない土地での、初めての三ヶ月間ものボランティア。何もかも初めてづくしの三ヶ月間でしたが、本当にいろいろなことを体験できました。

私は日本の「わかちあいプロジェクト」(日本ルーテル教会のNGO)にタンザニアに送っていただき、TCRS(Tanganyika Christian Refugee Service タンザニアルーテル教会のNGO)というNGOで活動をしました。現地では、日本から送った古着・援助金等の使用状況の調査以外仕事は何も決まっておらず、何をやってもよい、好きなことを自由にやりなさいという状況でした。実際一人で行って何ができるか・・・たいしたことはできないのでしょう。でも私のモットーは「何が何でも何かやってやる」。以下、私が難民キャンプでどのようにあがいたかを報告させていただきたいと思います。

アフリカは日本から本当に遠い。難民キャンプがどういうところで人々がどのように苦しんでいて、どんな助けを必要としているか。タンザニアとはどういうところでブルンジ人はなぜ自国から逃げなくてはならなかったのか。自分が体験するまでは全く理解していませんでした。それどころかブルンジの位置やタンザニアの首都も把握していなかったように思います。さしでがましいかもしれませんが、この報告集他を通じて、自分の体験がアフリカと日本との橋渡しになればと思います。

目次

1.キャンプの概要
2.ブルンジの歴史・ブルンジという国
3.タンザニアと難民
4.高校でのHUMAN RIGHTSの授業
5.条約集作り
6.マイクロ・プロジェクト
7.その他(古着支援・国際人権NGOに手紙を書こう!・UNHCRへの交渉・手紙を出す)
8.終わりに

 

キャンプの概要

私の訪れたタンザニア・キボンド地域は、多くのブルンジ難民がここ数十年にわたって国内の内戦を逃れてやってくる地域である。とくに1993年のブルンジのクーデター以後今日に至るまで、ブルンジ難民は続々流入している。彼らを収容するためUNHCRはこの地区だけでも5つのキャンプを建設、運営している。一番古い1993年に建設されたカネンブワキャンプ(約2万人)に始まりムクグワキャンプ(4万人)、ムテンデリキャンプ(4万人)、カラゴキャンプ(4万人以上)、そしてムクグワキャンプ(1200人)である。

前者の4キャンプにはブルンジから内戦を逃れてきたブルンジ人のフツ族が収容されている。少人数のムクグワは特殊キャンプであり、フツ族とツチ族の夫婦やその子供、またコンゴ、ルワンダからの難民、他の問題があって他のキャンプに住むべきでない難民が収容されている。

なお、どのキャンプももういっぱいで、99年12月にカラゴキャンプが新設された。現在もなお日々続々と難民はやってくるため既にカラゴキャンプの半分は埋まっている。

<タンザニア流入からキャンプ内の生活が始まるまで>

ブルンジから逃れてきた難民はタンザニア国境にてタンザニア軍に捉えられUNHCRに引き渡される。UNHCRは「名前、年齢、家族のメンバー、出身地、国を離れねばならなかった理由」等をそこで記録しトラックで彼らをキャンプに移送する。キャンプの登録所で再びNGOの登録を済ませ、子供はワクチンを打ち、配給カードと少々の生活用品を受け取る。その後、またトラックに乗せられ住処となる区画に運ばれる。区画は10m×20mで、林の中の草ぼうぼうの荒地である。何もない。そこが住処だとしてトラックから降ろされ彼等のキャンプ生活が始まるのである。

家もまきも何もないところから彼らは呆然としながらも生活を始め、しばらくのうちにわらや土の家を作りそこに住むようになる。5年も住んでいる者(住まざるを得なかった者)は日干し煉瓦の家を建てていることもある。

家の周りの小さなスペースを耕作して食糧配給の足りない分を補い、それをキャンプ内のマーケットに売りに出している。少し豊かな者は街で物を仕入れて店を出して販売している。数万人もの人間が狭いキャンプ内に住んでいるので、そこは、みすぼらしいながらの「街」となる。

<キャンプ内の施設>

① 学校

数年もそこで生活していれば子供もそこで生まれ、育っていく。UNHCR・UNICEFの支援により各キャンプには小学校が、そして一番古いキャンプたるカネンブワにはセカンダリースクール(日本の中高にあたる)もある。また、カネンブワには図書館もあり20畳くらいの部屋に本が並んでいた。他の4キャンプでもこれから図書館を建築を始めたところであった。

② 病院

各キャンプ一つは病院がありNGOが働いている。入院施設もあるが問題は薬不足・施設不足とのことだった。一つのベットに3人の子供とその付き添いの母親がちぢこまって寝ていた。栄養失調のものは5歳以下であれば、病院で栄養剤をもらえることになっている。しかし、5歳をこえると病院に行っても追い返されるということであった。主たる重病人はマラリア患者で命を落とすものも多いという。

③ マーケット

難民が運営するマーケットが各キャンプに存在し、キャンプの中心となる。タンザニアのキボンド地区にも負けない(キボンド地区はタンザニアで一番の貧困地区であるが)品揃えであり、レストランもあり、人の集まる夕方には活気があふれる。5年もキャンプ内にいると貧富の差がはっきりあらわれる。

④ 運営機関

タンザニア政府のMHA(Ministry of Home Affairs)、UNHCR、そして各々NGOがオフィスをキャンプ内に置く。キボンドの街にヘッドオフィスをおき、その実働部隊が各キャンプにオフィスを構えるのである。難民がキャンプ内の外出許可を受けるときにMHAのオフィスに行き、全般的な問題がある時にはUNHCRのオフィスに行く。毎朝、UNHCRのオフィスは長蛇の列である。

<運営>

UNHCRが全体の指揮をとる。しかし実働部隊は世界各地からきているパートナーNGOが担当し、実際にUNHCRが動くのは他国移住(カナダ・アメリカが多い)など政治に絡むものや法律問題等に限られる。

私のお世話になったTCRSはキャンプ全体の運営をし、一部のキャンプでは学校運営もしていた。ほか、UNICEF、IRC、DRA、UMATI, etc…多くの団体が活動していた。(参考までにカラゴキャンプの各団体の運営の分担の表を添付しておく。)

多くのNGO,国連によって運営されているキャンプであるが、団体間の問題も絶えない。

まずNGO間では連絡を密に取れていない。各NGO同士の競争も激化している。例えば、食糧配給のカットの続く資金不足の中、新たに図書館が12件も建設されるところだった(本当は各キャンプに一つでよいのに)。どのNGOもイニシアチブを取りたがり、指揮官たるべきUNHCRは彼らに的確な指示を与えきれていない。難民が問題をNGOに訴えても複数のNGOが異なる結論を述べたりし、難民から「もっとNGO同士協力してくれ」との声があがったりもしている。

ブルンジの歴史・ブルンジという国

ブルンジの難民

ブルンジでは、内戦により1999年までに約31万人が難民となり、うち29万人がタンザニアに、2万人がコンゴに、そして約1000人がルワンダに避難している。また、約80万人がブルンジ国内で強制移住させられているといわれている。合計110万人の人々、すなわちブルンジ国民の6人に1人が家を追われ、このうち40万人は1999年に新たに難民になったり、強制移住させられたりしている(数字はUNHCRのホームページによる)。

ブルンジという国

ブルンジは赤道の少し南、アフリカ大陸のほぼ中央に位置する小さな国である。北はルワンダ、西はコンゴ民主共和国(旧ザイール)と接し、その東にタンザニアが存する。首都ブジュンブラはケニアの首都ナイロビから約900キロ、また、インド洋に面するタンザニア首都ダルエスサラームからは約1500キロ内陸に入ったところに位置する。

アフリカとはいえ、ブルンジにはジャングルもサバンナもなく、ライオンやキリンや象もいない。国全体が標高1000メートル以上で、2000メートルを超える地域もあり、全体に山がちの国である。この標高のため、平均気温18度、降水量900から1600mmという人間が住むのにちょうどよい気候であり、ルワンダとあわせて、ブルンジはアフリカ大陸の中の「気候的・環境的な島(climatic and ecological island)」であるともいわれる。

このような高地にあるため、ツェツェ蠅や、マラリアを媒介する蚊も少なく、また山地が自然の要塞となって、19世紀のザンジバルを拠点とするムスリムによる奴隷狩りからも免れることができ、白人がやってくるまでは、外部からの侵略を受けることはほとんどなかった。

ブルンジは、ルワンダと同じく、一時期ドイツの支配を受けた後は1962年に独立するまでベルギーの植民地であった。ベルギーによる植民地支配と、カトリックは、ブルンジの文化に様々な影響を残している。

ブルンジでは母国語たるキルンディ語が話されるが、教育・政治はフランス語で行なわれ、ブルンジはアフリカの中の、フランス語圏に属する国のひとつといえる。英語については高校卒業以上の教育を受けたものは解することができる。他、東アフリカで広く話されているスワヒリ語を解する者も英語より多くの割合で存する。

ブルンジはルワンダと双子のような国家であり、同じベルギーの植民地であっただけでなく、民族構成もほとんど同じである。すなわち、人口の圧倒的多数はフツ族(約85%)であり、少数派のツチ族がおり(14%)、さらにごく少数派のトゥワ族(1%)からなる。これらの民族は、昔から同じ地域に入り交じって居住し、平和に暮らしていたとされる。

歴史的には少数派のツチ族がブルンジ・ルワンダの政治や軍事などを担当してきた。これはツチ族が支配者として権勢をふるっていたというよりは、もともとブルンジの伝統的な社会そのものが兵士や軍人に重きをおく「武断政治」のような形態をとっていたからにすぎない。

これに対し、ドイツとベルギーは、この少数派のツチ族による支配を利用・強化し、近代以降ツチ族とフツ族とを、支配者層・被支配者層に分化・固定してしまった。ツチ族はエリートであり、留学をするなどしていわゆる知識人が多かったのに対し、フツ族の知識人は少なく、多くが農民であった。

独立後の小史

独立後、多数派のフツ族が支配権を握ったルワンダと異なり、ブルンジでは30年間にわたる抗争の末、少数のツチ族エリートが政治と軍の実権を握った。1960年代と70年代には、ツチ族とフツ族との衝突が何度か起こり、フツ族住民が何10万人も殺されている。
やがてフツ族の不満の高まりと、国際的な圧力により、選挙によって大統領を選ぶことが認められ、1993年、初のフツ族の大統領としてンダダイエ大統領が民主的選挙によって選出された。これに対し、権力を手放すまいとするツチ族の強硬派は8月20日に大統領を暗殺。この暗殺をきっかけに、60年代、70年代の虐殺の再来を恐れるフツ族がツチ族に対し大規模に反乱すると、ツチ族主体の軍隊はこれに反撃した。フツ族はFDDやFNLといったゲリラを組織して対抗し、何10万もの人々がブルンジ国内外のキャンプに逃れ難民となり、30万人から50万人が虐殺されたといわれる内戦が始まった。

さらに1996年には軍部がクーデターを起こし、ツチ族のピエール=ブヨヤ将軍が大統領となった。ブヨヤ大統領は軍隊を増強し、経済制裁を受けているにもかかわらず軍事費を増やしたため国家は疲弊。フツ族のゲリラはウガンダやコンゴ民主共和国(旧ザイール)に拠点をおいてこれらの国の支援を受けているといわれ、ブルンジにたびたび侵攻し、ツチ族主体の軍とフツ族主体のゲリラによる内戦が現在でも続いている。特に近時は、ゲリラがタンザニア国内の難民キャンプを拠点にしているとブルンジ政府は非難している。

また、ゲリラがフツ族住民が多く住み、首都に近いブジュンブラ=ルーラル地区を中心に活動するようになったため、ブヨヤ大統領は、ゲリラと、これを支援するフツ族住民とを分離させるべく、80万人もの人々を強制的にregroupment camp に移住させた。このキャンプは1998年には閉鎖されたとブルンジ政府は主張している。

今後

1999年末より、偉大なアフリカの指導者ニエレレ氏(タンザニア初代大統領)のあとを継いで、前南アフリカ大統領ネルソン=マンデラ氏が仲介役となって和平合意の実現に向け た努力をしている。8月にはタンザニアのアルーシャで、すべての当事者が集まって和平へ向けた会議が開かれ、クリントン大統領もタンザニアを訪問してい る。しかし、ゲリラ組織の中には、和平会議への参加を拒否するものもあり、ツチ族もフツ族もお互いを非難するばかりで、結局停戦合意には至っていない(2000年11月現在)。

 

タンザニアと難民

大量の難民が流入しているためタンザニア国内も難民により大きく影響されている。

もともとタンザニアは平和な国でアフリカにしては珍しく1960年の独立以後一度も戦争をしていない。そして初代大統領たるニエレレが難民の受け入れに温和であり、以後周辺諸国(ブルンジ・ルワンダ・コンゴ・エチオピア・モザンビーク等々)から大量に難民が流れてきている。国境付近は難民キャンプだらけであり、例えばブルンジとの国境に沿っては、キボンド地域も含めて11の難民キャンプがある。突然4万人規模の街ができるのだからその影響力は想像できるだろう。

難民キャンプによるタンザニアへの主な影響

①犯罪の増加

難民の中には武器を持ってタンザニアに逃げてくるものもいる。また、食糧難により難民がキャンプの外に許可なく外出し、付近の住民の家を襲うという事件もおきている。難民は許可なくキャンプから外出できないとされ、キャンプ内にはタンザニアの警察が入り警護にあたっているが、タンザニアの幹線バスでのバスジャック、強盗、強姦等あとをたたない。

②土地紛争等

難民キャンプの開設はタンザニア国がUNHCRに土地を貸すことによってなされている。もともと、その土地で生活していた者との土地を巡る紛争がおきる。上記の犯罪の増加も含めてNGOも対策をとるべく、難民や地元の人を対象とするワークショップを開催している(例えば私も出席した「peace education」をテーマにするもの等。そのワークショップではタンザニア人は絶対に難民がキャンプから出ないようにしてくれと意見していた。また、窃盗等をせずにも難民が生きていけるように国連が難民に十分な食料を与えてくれとも提案していた。)

③環境破壊

林を開墾してキャンプにし、その後も難民が住居建築や燃料のために木を伐採する。環境破壊が著しい。新しくキャンプに流れて来た者に対し環境教育がなされている。木を伐採してもよい土地が決められており、それ以外の土地で森林を伐採したものは罰せられる。

④雇用機会の提供

難民のタンザニアへの影響は悪影響にとどまるものではない。大卒者の80パーセントが職を見つけられないという超経済不景気のタンザニアにおいて、多くのNGOや国連は就職の一大市場である。ダルエスサラーム大学を出たタンザニアのエリート達はこぞってNGOに就職している。よって、タンザニア人は戦争が終わって早く難民が国に帰還して欲しいという願いもある一方、そうなっては職を失ってしまうという相反する悩みも抱えている。

またかなりおおざっぱな個人的意見であるが、以上に伴い次のような問題もあるといえよう。国際職員(タンザニア人以外の者)は概して人道的精神に基づいて職を選んでいるゆえ難民問題に真剣に取り組み、多少の犠牲も惜しまない。それに反しタンザニア職員は、(一般的な傾向にあるというにすぎないが、)一般の職を求めるのと同様に給与が良いこと、他に職がないことを理由にNGOで働いている。同様の仕事をしているのであるが、難民に接する態度は結果的にかなり違うのではないかと思う。この私の意見には他の国際スタッフも同意していた。

 

高校でのHUMAN RIGHTSの授業

10月2日(月)から10月13日(金)の2週間、キャンプの中にあるカネンブワ・セカンダリースクールの6年生(日本の高校三年生)で人権の授業を受け持った。CIVICS(公民とでも訳すか)の授業に位置付けられ、朝8時から2コマ(1コマ50分)もしくは3コマで、毎日教壇にたった。

きっかけ

「全ての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利との間において平等である。(世界人権宣言 第1条)」

日本でも弁護士を志し、国際人権NGOで活動してきた私は「世界人権宣言にある全ての人権を世界の全ての人において実現すること(アムネスティインターナショナルの理念同様)」を、夢、そして目標に据えている。

難民キャンプでは、食糧の配給や医療の整備等でUNHCRや各NGOの能力は限界に達し、表現の自由等の人権状況にまで配慮する余裕のあるものはいない。しかも、国連職員が難民を殴ったりするような状況まで耳にする始末である。

難民キャンプでできることなら何でもやってやる、それが法律や人権に直接関係なくともなにかできるならそれで構わないと思ってキャンプにやってきた私であったが、やはり自分の専門分野である法律や人権にかかわれるのならば、本望である。そして、その分野こそがもっとも得意とするところでもある。

何かできないかと最初の2週間で悩みに悩みぬいた結果考えついたのがこの、セカンダリースクールでの人権の授業であった。

セカンダリースクール・生徒達

5つあるキャンプのうち、一番古いカネンブワキャンプにのみ中等教育機関であるセカンダリースクールがある。Standard7からForm1,2,3….6まで、7学年が学んでいる。生徒数は約200人。各学年一クラス(Standard7のみ、今年は多くて2クラスだった)で、平均1クラスが25人で構成されている。

TCRSにより運営され、資金はUNHCRにより提供され、無料で通学できる。

私のもった6年生(Form6。以下6年生とする)のクラスには28人の生徒が登録されていたが、そのうち二人は校則で決められた学校環境の整備作業をサボったということで出席が禁じられていた。

平均年齢は24歳くらいであろうか。このセカンダリースクールは勉強をしたい者を広く受け入れている。自国ブルンジで戦争のために勉強が遅れた者、勉強を断念した者もここで学んでいる。6年生の私のクラスの最年長は57歳の男性であった。かれは27年ぶりに勉強を再開するということで「この記念すべき日にさよに会えてとてもうれしい」と最初の自己紹介で語ってくれた(ブルンジでは10月から一年度が始まる。私は新学期早々に授業をしたのである)。女の子は28人中3人のみ。アフリカでは料理も耕作もたきぎ拾いも、もちろん育児も全て女性の仕事であり、そのため、女の子は家事手伝いを求められる。親が女の子を積極的に学校に送らないという事実もある。キャンプ内のどこでも女性は忙しく働いていた。

6年生のクラスを持ったのはひとえに英語力の問題ゆえである。ブルンジでは母国語たるキルンディ語を皆が話すが、学校の授業は全てフランス語で行なわれる。よって、学校に行った人はフランス語も話す。さらに難民達はタンザニアで暮らさなくてはならないゆえタンザニアの公用語たるスワヒリ語を解する者も大変多い。そして、タンザニアのもう一つの公用語英語はかれらの第四言語にあたる。セカンダリースクールではこの4つの言語の授業があり5年生6年生になると4言語を話せるようになる。英語は第四言語ということで6年生全てが流暢に話すとまではいいがたいが、皆授業を理解する英語力は持っているということで6年生のみに授業することになったのである。

学校の問題点

セカンダリースクールの最後の学年である6年生は5月に卒業試験を受け、それにパスすると卒業が認められ、大学に応募する資格証書を受け取る。しかし、難民達はキャンプから外にでることはできず、キャンプ内に大学などあろうはずもない。セカンダリースクールを卒業するということは、またキャンプ内で一日中何もやることなしに過ごさねばならないということを意味する。先生方は5月の試験に向けて勉強するように生徒を励ましていたし、生徒達も勉学意欲はあるので勉強には励んでいたが、生徒自身は学校を卒業したい かというと複雑な心境であるという感じだった。

何度も何度も、「奨学金を手に入れてくれ」「何とかして大学に行かせてくれ」という生徒達の訴えを聞くことになった。

もっとも、セカンダリースクールに来て学んでいるものはかなり幸せな方であり、自分の人生に前向きな者である。

小学校にはほぼ全ての子供が進学するが、卒業はそのうち7分の1くらいであろうか。さらにセカンダリースクールに行けるのはごくわずかである(そもそも5つあるキャンプのうち一つにしかセカンダリはない)。家の手伝いで学校にこれなくなるものもいる。また、彼等はいつキャンプから出られるかわからず、ひょっとしたら一生この狭い8km×10kmのなかで過ごさねばならないかもしれない。今、数学を勉強しようと英語を勉強しようと、自分の将来にそれは全く役に立たないかもしれないのである。勉学意欲 を持つことですら困難だということであった。将来がない、夢も希望もない、というそんな状況の中で勉強を続けていくのは本当に大変なのだということを実感した。普段日本で生活しているときに「将来がある」ということのすばらしさというものを、ここまで考えたことは一度もなかった。

授業の方法・内容

授業は私が講義をし、随時みなの質問、意見を聞き私がそれに答えるという方法で進めていった(講義要綱参照)。質問・意見は絶えない。彼等の質問にあわせて授業の内容をどんどん変えていったので、毎日用意したテーマは常に半分くらいしか終わらなかった。また、こちらが考えていなかったところで議論が紛糾してそのテーマを別の日に取り上げることになることもあった。(例えば、マイノリティーの人権についてである。難民の彼らはマジョリティーだが歴史的に人権侵害されてきたフツ族である。マイノリティーを特別に保護するとする国際的な流れに対し彼らは疑問をもつ)

時に、「さよにブルンジの人権状況を教えなくっちゃ」と、率先して生徒の方から教壇に立ち生徒が1時間講義をしてくれたこともあった。日本の人権状況についても深く関心を持ち、例えば私が過労死についてはなすと「日本人は大学にもいけるし仕事にもつけるしお金もたくさん稼いで食べ物にも困らない。でも、幸せかと思ったら、仕事のしすぎで死んじゃう人がいるんだ…しあわせってなんなんだろう・・・。」等々興味深い反応が返ってきた。

また、日本に対して人権からはなれて「今、HIROSHIMAやNAGASAKIの人は普通に生活ができるのか」といった質問に答えることもあった。

2週目には今までの授業を応用して、生徒に5人のグループを組ませ討論をするという時間も設けた。

感想

人権について、平和な国日本で学び、教室の中の人権しか知らない私の授業が皆に受け入れられるか、不安だった。家族は皆殺され、自分も殺されそうになりながら命からがら隣の国に逃げてきて、その後、さらに5年以上もキャンプからでられず、食べるものも着るものもぎりぎりの状況で暮らしている彼らに、「人には移動の自由があります」とか「人は生きる権利があり、皆平等なのです」とかいっても、「だまれ!」「そういうんなら俺らにもその権利を保障しろ」とか言われたらどうしよう…と授業を始める前には恐れていた。

しかし、驚いたことに彼等の人権感覚は我々のものとは全く変わらなかった。

「いくら家族がツチ族に殺されても、僕らがツチ族を殺していては戦争は終わらないんだよね。みんな、生きる権利があるんだもんね」

「参政権がなくっちゃ自分達の国を自分達でよくすることはできないよね」

「表現の自由や移動の自由は人間にとって本当に大切だよね。」等々。

それを聞いて、心からほっとした。それは自分が自分の常識をもとに授業を継続できるという安心感のみではない。人権の大切さというものはこんな、日本からすれば地の果てといってもおかしくないようなところでもみんなが身にしみて感じていることであり、また何をもってしてでも擁護しなければならないものなのだと実感できたことによる安心感であった。

人権侵害の最たる被害者とともに時を過ごして、人権の重要性を実感できたこと、そして、彼らが自分の人権を手に入れるために人権という概念を少しでも伝えることができたこと、これが2週間の収穫であった。

「人権は全てのものに優先し、世界中のどんなものよりも守られねばならない。」

「人権にも制限はあるが、その制限も他の人権を理由とするものでなければならない」

これが、私が2週間に渡って彼らに伝えつづけたメッセージであった。

生徒の感想

彼らは本当に真剣に授業を聞いてくれ、たくさん発言してくれた。

以下に彼らが最後に感想として書いてくれたうれしいメッセージを載せる。

・I would like toa ask you if it will be possible to ontinue teaching until the end of this year?

・Excellent impression. I benefit this course because it brushes up my knowledge about human rights, and we exchange our experiences.

・You showed all of us how you love the refugees.

・I want you to continue to teach people in the world, particulary Burundians about human right. Then people will be able to resolve their problems.   etc…

 

条約集作り

5冊の難民に関係する条約・法律を集めた法令集を作り、5つのキャンプの各図書館に(近い将来できあがるはずの4つも含む)寄付をした。

きっかけ

仲良くなった難民の青年が、UNHCR職員に難民条約が欲しいと訴えたら、そんなものはおまえ達には必要ないと断わられたと言う。

何のための難民条約やら・・・。難民のための難民条約なのではないの?

UNHCRがやらないんなら私がなんとかしよう・・・

どうせ条約を集めるんならセカンダリースクールでの授業ででも使いたいしいろいろ集めて本にしちゃおう。

TCRSがいまだ図書館のない4つのキャンプにも新しく図書館を作るということだし全ての図書館で難民が手に取れるようにしよう・・・。

と、5冊の法令集を作り出した。

法律的観点からみたキャンプ内の人権状況

難民は自分にタンザニアの法律が適用されているにもかかわらずその内容を知らない。

例えば、タンザニア難民法は

* 5人以上の難民を集めたら5年以下の懲役または(加えて)3万円以下の罰金。
*タンザニア国内外の家族と再会した場合に当局の許可なく、ともに生活を始めたら6ヶ月以下の懲役または(加えて)1000円以下の罰金。

とかいったことを規定しているにもかかわらず、難民自身はそれを知らない。

実際、5人以上の難民は市場で集まり、食糧配給所で集まりしているのだが、いざとなったらタンザニア政府はそんなことを理由にしてでも彼らを逮捕できるということである。

そして、タンザニア憲法(もちろん国際人権条約でも)では集会の自由は大々的に保障されている。つまり、その難民法は明らかに国際人権条約やタンザニア憲法に反しているのである。憲法訴訟が起きれば確実にその条文はなくなる。キボンドのマジストレイト(地裁にあたる)裁判官も、難民が誰かこれに関して憲法訴訟をしたら勝訴の判決を書いてやれるのに難民は誰も訴えない・・・・と悔やんでいた。

難民の権利は法律だけではなく、慣習でも制限されている。政治的表現の自由は法律ではなく慣例で制限されているという。慣例って何だ?誰が決めたんだ?でも、難民がキャンプ内で集まって政治談議をしたら逮捕できるということである。

これは、ブルンジ難民がキャンプ内でブルンジの政治について話し合い、政党でも作ったとしたらブルンジ政府がタンザニア政府に対し攻撃を仕掛けてくるかもしれないという懸念の下の慣習とのこと。その懸念もわからなくもないが何の根拠もなく好き放題逮捕されてしまいかねない難民の人権状況の悲惨さといったら、目を覆いたくなるような状況である。

しかし、このような人権状況に対しても難民は声をあげられない。あまり目立った行動をすることで、UNHCRの目にとまり食糧の配給を減らされたりすることを懸念するからである。実際そのような不公平な取り扱いがなされているかどうかは不明だが、難民達は「UNHCRは今となってはわれわれの国であり、父であり、母である。彼らに従う以外生きていく道はない。」との発言をするくらい今の状況に甘んじるしかないと考えている。

難民個人では法律的知識がないから法律的行動には出られないし、UNHCRに一人だけ雇われている難民担当のタンザニア人弁護士はキャンプ内の殺人やレイプ等のケースの刑事手続の処理に終われている。何とか、人権状況の改善を図ることだけを仕事とするスタッフがUNHCR内におかれるべきだと痛感する。キボンドオフィスでなくとも、国際社会の動きとして難民の権利をもっと向上するような働きかけをもっと活発にしなくてはと感じる。

過程

日本なら、法令集なんて本屋に注文すれば、100冊でも1000冊でもすぐに手に入る。が、そこはタンザニアの辺境地、キボンド。マジストレイト・コートの裁判官に頼んでタンザニア憲法(難民キャンプとはいえタンザニア国内なので難民にはタンザニア憲法が適用される)を入手したはいいがオフィスでもコピーは日に10枚とかそんなレベルしか許されない。

インターネットもないから世界人権宣言一つも入手できない。やっと手に入れたタンザニア難民法はコピーが不鮮明で自分でもう一度タイプしなくてはならない始末。

8月末にタンザニアを訪れた知人に原本をコピーして持ってきてもらいそれを、あちこち駆けずり回り、挙句の果てには首都のダルエスサラームに行った折りに全てのコピーを完成。

法令集ができたときには、うれしくって思わずセルフタイマーで記念撮影してしまった(写真参照)。

目次及び前書きを資料として添付した。基本的にフランス語で法令は集めた。法令集には以下のものを掲載した。

* 世界人権宣言
* 経済的社会的及び文化的権利に関する国際条約
* 市民的政治的権利に関する国際条約
* 難民の地位に関する条約
* アフリカ難民条約
* タンザニア難民法

結果

先に記載した人権の授業で、この法令集は大活躍した(写真参照)。

加えて、図書館の設置により勉強の継続のみならず、フランス語を読める全ての難民に自分達が法律的にどのような状況におかれているか、どのような援助を受ける権利があるのか等々を知らしめる良いツールとなっていることと思う。難民でも元政治家や、大学教授、弁護士等の人もいる。それらの方の目にも触れればと強く願う。

 

マイクロ・プロジェクト

計300ドル(約33000円)をカラゴキャンプに寄付して、マイクロプロジェクトをスタートさせた。

内容

現金収入を得るためのマイクロプロジェクトを難民が始められるように300ドルを難民のグループに寄付した。以下のマイクロプロジェクトがTCRSの指揮の下、難民自身の主導で動き始めている。

①パン屋
対象:子供を多く持ち(5人以上)、かつ夫をなくした女性(12人)
金額:150ドル
※寄付金はパン焼きがま、料理器具、最初数回分に使われる。以後、拡大再生産する予定。

②アヒル・ウサギ繁殖
対象:孤児(11人)
金額:60ドル
※つがいのアヒルとウサギを与え、繁殖させる。2匹受取ったものは4匹を繁殖させて他の孤児に配らなくてはならないという計画になっている。

③自転車修理
対象:自転車修理の技術を持っているもの
金額:90ドル
※もともと、キャンプ内には個人で修理している者がいるが材料を買うお金がなく、修理工も自転車を使う難民も困っている(自転車はUNHCRから、ごくたまに難民に寄付される)。寄付は材料費に。

動機及びそれぞれのプロジェクトを選んだ理由

キャンプでは食糧配給は徐々に減りつつあり、ひどければ2日に一食しか食事にありつけない状況である。仕事をすればよいかというと彼らはキャンプから出ることはできず、かつキャンプ内では耕作する土地もなく、何かを始める資金もない。そして、難民キャンプの一番の問題点はやることがないことであリ、それにより犯罪も増えていく。

そこで、現金収入を難民に得させ、彼らにやることを与え、技術を身につけさせるべく既にいくつかのNGOが5つあるキャンプでマイクロプロジェクトを展開していた。そのマイクロプロジェクトは、パン屋、ハンディクラフト制作、大工、石鹸作り等であった(写真参照)。

しかし難民は続々流入し、新しいキャンプができ、既存のNGOの取り組みは一部の難民の生活を支えるに過ぎない。問題は資金難である。

私は私の寄付可能な範囲の金額でも何かプロジェクトを始めることができるということを知る。そこで、300ドル寄付するに至ったのである。

できるだけ弱者を救いたいという観点から、一番最近建設され、まだ難民の受け入れを行なっているカラゴキャンプでの支援を選んだ。そしてその中でも、最も支援を必要としている人々ということで対象を絞る。

また、材料をキボンド周辺から手に入れられるか、キャンプ内での必要性、商品の市場がキャンプ内にあるか、高度な技術を必要としないか、継続性があるか等々の観点から、以上の三つのプロジェクトを選んだ。

経過

私は2週間にわたり何のプロジェクトを開始するかを決定するために、5つあるキャンプを調査した。難民キャンプ外の市場との競争や(そんな大げさなものではないが)、材料の価格と収入の関係、誰が技術を教えるか等々、たくさんの疑問を既にプロジェクトを行なっている他のキャンプの難民やNGOの人に聞いた。また、何人の難民をプロジェクトに参加させるか、誰がプロジェクトにかかわる難民を指揮するかということも計画した。

そして、三つのプロジェクトを決定、TCRSに300ドルを寄付。難民に直接現金を渡すと他のことに使ってしまうので、材料を買って渡す。私の滞在中にはアヒルを買うというところまでしかできなかった(写真参照)が、最近の現地からのメール報告によれば、自転車修理工は建物を完成させ、材料を近くの町まで買いに行くべくタンザニア政府からキャンプ外出許可を得たということであった。また、今月末に孤児にウサギも支給するということであった。

感想

日本ではほとんど寄付などしない私であるが、死にそうになって困っている人が目の前にいると寄付の三万円など全く気にもならない。日本での寄付は自分のお金が本当に役に立っているのか、本当に困っている人がいるのか、どのくらい困っているのかそれが実感できないからあまり集まらないのであろう。

たった3万円で、何10人の人が助かると思うとワクワクした。お金持ちってすごくいいことだ!と実感。悲しいかな、何を置いてもやはりお金は重要である。

定期的に報告が送られてくることになっているので、今後どう発展していくか、楽しみなところである。

 

古着の支給

概要

難民キャンプにはカナダ、アメリカ、ヨーロッパ等から古着が送られてくる。日本からもわかちあいプロジェクトで今年の6月古着を現地に送っている。その古着の一部が8月の上旬にキボンドに届いたのでその種類分別を手伝い、そしてその配給を視察した。

古着は女性・男性・女の子・男の子と分別し、それぞれ別々に麻袋に分けられ、数を確認して、一定程度数が集まったところで支給する。1キャンプが4万人もいるキャンプでは、全員を対象にする支給をするには数がそろうまでかなりの期間待って、準備せねばならず、なかなか全体支給は難しい。そのような場合には障害者のみであったり、学校の生徒だけであったり、一部のもののみを対象とした特別な支給が行なわれる。

私は全体を対象とした古着の配給に立ち会うことができた。

ちなみに、古着の分別はTCRSのタンザニア人スタッフひとりが指揮をとり、難民を雇って行なわれたが一日の給料は、60円程度。現地では卵3つ、バナナ2房といったところが一日の給料であった。

また、かれらに何枚服を持っているかと聞いたところ、長くあるキャンプからの女の子は「スカート2枚に、シャツ6枚」と答えたが、新しいキャンプのものは着の身着のままであるということだった。

問題点

日本から、ダルエスサラームまで古着をほぼ地球一周を運ぶのは1ヶ月くらいである。しかしダルエスサラームからキボンドまで(雰囲気的には東京から沖縄くらいのイメージか)その古着を全部運ぶには3ヶ月以上かかるのではないか…。何で、もう国内にあるのに、キボンドまで届かないんだ!…とても歯がゆく思った。 

それは、TCRSのトラックが3台しかないからであり、道路ががたがた道ですぐにトラックも痛んでしまうからであり、お金がないから他のトラックも雇えないからである。難民達は古着をいつでも欲していて、日本では古着を集めればすぐに集まる。しかし、問題はそう簡単ではなく、日本からの古着の支援にしても輸送費をもっともっと集める等方法を考えなくてはならないなと考えさせられた。(今は、日本からタンザニアの港までのお金をわかちあいで集めているがそれですら400万円以上かかっている)。

国際人権NGOに手紙を書こう!

内容

世界に数ある人権NGO・緊急援助NGOのなかで、ブルンジ難民について取り扱っているNGOの連絡先リストを配布した(キルンディ語)。自分の状況をキャンプ外に訴えたがっている難民達に、実際に自分達の問題点を国際社会に訴えるべく手紙を書くように勧めた。(資料参照、キルンディ語及び英語のものを添付した)難民には手紙を送るお金もないので、彼らの書いた手紙を投函した。

動機

難民達は、自分達の問題点をキャンプ外に訴えたがっている。しかし、UNHCRの職員もそれ以外のNGOの職員も、時間や人手の問題でなかなか彼等の声をじっくり聞くということはできないし、ときに声を拾い上げようという態度を有しないことすらある。難民達が自分の情報を国際社会に訴えたいという望みについては、訴え先が彼らにはわからず大変困難である。

逆に、キャンプの外の国際社会、例えば日本では難民を助けようとタンザニアの情報を得ようと努力してもこれまた困難である。アフリカの状況は先進国からは遠すぎて、全然伝わらないというのが実感だった。(アフリカは暑いと思っている方、タンザニアでは暑くないところが半分くらいなのでは?さむくて風邪を引いたこともあったくらいです。こんな簡単なことでも情報は伝わりにくいのです。)

私が日本でかかわっている人権NGOアムネスティ・インターナショナルでは手紙書きが重要な人権活動である。すなわち、人権侵害が起こっている地域の政府やら人権侵害の加害者達に「人権侵害をやめよ!!」という膨大な量の手紙を世界中から送りそれで人権侵害を止めさせるのである。この活動にヒントを得た。

難民を助けたいと思っている人は世界中に少なからずいる。しかしその情報はなかなか入らない。難民自身が情報の発信源になり、状況や問題点の詳細までを国際社会にアピールすることが双方にとって助けになるのではないか・・・。そう考えて添付した国際人権NGOのリストを作り、難民達に配ったのである。

結果

難民達は、自らの声を国際社会に届かせるべく、たくさんの手紙を書いた。私はそれを受取り、日本に帰ってから投函した。今も何人かの難民が手紙を書きつづけているかもしれない。

これらの手紙により、難民の生活が飛躍的によくなるということは全く考えていない。

しかし、ちょっとした活動がいつしか大きな波となってほんの少しの進歩でも見られれば、と思っている。彼等の手紙のうち一通と、ある難民が書き私のタイプした彼の今までの略歴を資料として添付しておく。

難民に代わってUNHCRに交渉をする

カナダに移住した家族の下に行きたい。学校に行きたい。病気なのでキャンプの外に行って治療を受けたい。・・・難民達の切実な願いは限りない。

しかし難民達の声は日々の業務に追われるUNHCRスタッフ(特にタンザニア人スタッフ)には届かない。

難民達は少しでも生活を向上させようと必死で解決案を探し、少しでも役に立ちそうな手段は全て試みる。

私の姿をみると、たくさんの難民達が集まり、彼等の問題点を話し、UNHCRスタッフ等に話してくれと懇願する。私にできることはほとんどないに等しいが、一人しかいない日本人から頼むのとウン万といる難民の一人が頼むのでは相手方の反応は全く違う。何人かの難民の願いをUNHCRスタッフに伝えた。手紙を書いたり(難民からの手紙はUNHCRスタッフは封も切らないだろうが、私が書けば、少なくとも読むことはする)、一緒にお茶を飲んでいるときに何気なくアピールしたりした。

手紙を出す

難民には手紙を出すお金がない。彼らに頼まれて50通近くの手紙を投函した。FaxやE-mailもしかりである。

終わりに

夢だったんだろうか、あの3ヶ月は。

あまりにも日本の日常とかけ離れているタンザニア。帰国後3週間たった今でもタンザニアのことを思うと夢見ごこちになる。それにしても、なんて自分は幸福だし幸運なんだろう。こんな経験できる人はめったにいない。そんな満足感と、感謝の気持ちではちきれそうになる。本当に本当に貴重な体験をした。

難民のために何ができたか? おまえは何をやったか! これから何がやれるのか!

自分が無力であることはタンザニアに行く前もわかっていたし、今もそれは変わらない。

私がいて、戦争が終わるわけではなく、母と離れ離れになった子の母を見つけられるわけでもなく、一人の難民を大学にやれるわけでもない。私は小さな日本人の女の子にすぎない。

日本国内で「人権!人権!」と騒ぎ出し、ボランティア活動をはじめて7年が経った。

いつも人権だとか、国際的だとか、難民だとか口にはしているけれど、いったいそれが何なのかということはわかっていなかった。

そこまで、言い切ることが許されるならば、

「抽象的だったことが具体的になった。」
これが、一番この三ヶ月にぴったりくる表現である。
抽象的だった難民が具体的になり、抽象的だった国際人権が具体的になり、抽象的だった国連が、NGOが、抽象的だった国際貢献が具体的になった。価値観が変わったというのではない、ベクトルの方向が変わったというのではなく、今までとベクトルの方向が全く同じかというとそうでもない。

ただ、世界人権宣言の全世界での実現に向けて頑張る勇気を。

そのために世界で頑張っている人がいて、我々の活動を心から待ち望んでいる人がいる。

あきらめてはいけない、がんばろう。そんな気持ちを与えてくれた3ヶ月だった。

これから私がやるだろう人権活動を、タンザニアでブルンジで、多くの難民が友人が応援してくれるだろう。あきらめそうになる自分を叱咤激励してくれるだろう。

たとえ、古着を一枚送ることでもいい、なんだってやってやる、その気持ちを一生忘れずに、そしてがむしゃらになること。これを私を暖かく包んでくれた難民の彼らやタンザニア人のスタッフ、その他多くのこの体験を通じてお世話になった方たちへの猿田の誓いとします。
この機会を与えてくださった方々に感謝し、猿田を暖かく見守ってくださった方々に感謝します。

2000年11月21日(火)
猿田 佐世