2004年12月26日に発生したスマトラ沖地震による支援を地震発生後、1月6日アチェ州に、13日には支援が届いていないニアス島にわかちあいプロジェクトのスタッフが救援物資(古着・医療品・飲料水)を支給しました。


10トントラックに8000食のインスタントラーメン、30KGの米、300袋、それに古着をアチェに送りました

2005年6月14日に再度、ニアス島での古着支援に取り組みました。7月に送る2005年度の皆様からの支援の古着は、できればコンテナのまま陸路運び、フェリーでニアス島まで運びたいと考えています。

 


被災地に向かう宇野(左)
社会事業 わかちあいプロジェクト
地震と津波(12月26日)のために、という意味の垂れ幕

 

宇野さんからのメール

12月28日
私は、地震が起きた時はちょうどメダンの(インドネシアの両親の)シマジュンタック宅で過ごしていました。一番最初に気が付いたのは私で、「地震?」と親族に問いかけるとしばらく顔を見合わせたりしながら、一呼吸置いて「あホントだ!地震だ、地震だ!」と大騒ぎになりました。かなりゆっくりと横揺れが、かなり長時間続きました。インドネシアでは地震は珍しいことです。家族全員10名ほどが外に飛び出しました。家の中に残っていたのは私一人で、まるで船に乗っているように感じました。棚から物が落ちるとか、そういった被害は無く、ただゆっくりとした横揺れが続きました。
その日の夕方、日本人牧師宅に出かけ、話しを聞いたのですが、地震の時はちょうど車で教会へ向かう途中で信号待ちをしていた時だったそうです。信号待ちをしているとストリートチルドレンなどがお金をもらいに集まってくるのがこちらの普通の状態ですが、その日は子供たちが車に触って揺り動かすのです。と思ったら、揺れているのは地面の方で、信号や電柱や巨大な建て看板の上部がゆらゆらしていたそうです。電線も縄跳び状態。そこから教会までの道沿い、無数の人が外に出てみんな上空を見上げていたそうです。教会に着くと信者の人たちが次々に「突然酔っ払ったのかと思った」「めまいがするから礼拝を休もうかと思った」「5mぐらい勝手に歩いてしまった」とか報告してきたのだそうで、日本では珍しくない地震に平然としていた牧師先生夫妻の方が逆に珍しがられたとのことでした。
こちらのニュースでもたびたび震源地アチェの様子が流されていますが、かなりの被害です。

12月30日
メダン総領事館と連絡をとりました。物資の受け入れはあちこちにあるキャンプで行なっているそうです。それらを統括する事務所は無いそうです。総領事館でも受付を行なっています。総領事館は年末年始の休みはありません。  
ジョンソンさんに現地入りしてもらい、状況を知らせてもらってから物資を運搬しようと思います。私は3日頃にメダンに行き、オジャックさんと落ち合い、銀行を回りアチェに行こうと考えています。
以上です

1月1日
明けましておめでとうございます。

という雰囲気でもありませんがウェスリーさんに何度か連絡を入れましたが、 自宅もケータイも連絡がつきません。Sデボラさんの関係者がアチェから戻ってきました。メダンに住んでいるロビンソン牧師です。道路は物資運搬車両で混みあっているそうです。現在メダンからアチェへの空路は1日5便ありますが、チケットの手配が難しいとのことです。現地では教会がエキメニュカルな活動を展開しています。連絡者の情報も受け取りました。ジョンソンさんには飛行機で向かってもらい関係者に会い、情報を送ってもらう予定です。またイスラム教徒の中には、キリスト教会からの支援を拒否する動きもあるそうです。衛生状態が悪く、悪臭に満ちているそうでマスクは手放せないそうです。
デボラさんのお父さんが4日にメダンに到着し、一緒にアチェへ出かけてくれることになりました。
本日ジュウィノ君が出発し、シアンタールでオジャックさんと合流し、明日から二人で古着の仕分け作業が行なわれます。

3日
メダンに到着しました。
ジョンソンさん(スタッフのインドネシア男性)は飛行機でパンダアチェに到着しました。

4日
明朝、買出しと領事館を予定しています。既に購入するものなどもリストアップ作業に入っています。アチェまでの道は通じているそうですがガソリンの調達が困難、あっても5倍以上の値段だそうです。これはメダンの警察官から聞きました。ガソリンを運搬するためのポリタンクや連絡用のケータイなどの購入も予定しています。
古着は長期的に考えるとアチェには何度か運ぶことになると思います。

5日
1.今朝ほぼ予定通りの時間にデボラさんのお父さん、ジャカルタから到着しました。
2.総領事館にゆきました。現地からの報告では、道路状態は問題なく、ガソリンも高騰しておらず、食料も足りているそうです。また、当初予定していた3箇所のうち、2箇所は被害が少ないことが分かりました。1箇所はニアス島ですが、ここは足の便が悪く、未だにどこの救援チームも入っていないとのことです。
3. 日赤チームが被害の大きかったムラボーへ入ろうとしているそうですが、やはり足の便が悪いことが問題で、スムースにゆかないそうです。
4.今のところ民族間の争いもないし、伝染病等の蔓延もありません。問題は亡くなった方の埋葬だそうで、50%が放置されているそうです。これが長期化するとどうなってくるか分かりません。
6.現在不足しているのは、下着と生理用品だそうです。
7.トラックの都合がつかず、都合がついても運転手がアチェにゆくのを嫌がるので、足の確保が困難でしたが、HKBP関係者の紹介でトラックと運転手の手配が出来ました。
8.そこで、直接、被害の大きかったバンダアチェに出発することにしました。明日夕方、デボラさんのお父さんと出かけ、休憩を含めて明後日の昼ごろの到着予定です。しばらくメール出来ません。
9. ニアス島はシボルガから船ですが、フェリーがないので、荷物をトラックから船に積み替え、到着したら再度トラックをチャーターしなければなりません。

5日
(2報)
受け入れ先はあちこちにある物資受け入れ先(ポスコと呼ばれています)です。PGIとHKBPのポスコに届けます。ジョンソンさんは現在そのポスコでボランティアワークしています。
トラックはFUSOとしか情報がありません。多分あちこちで使い回されているのでしょう。とりあえず古着100箱、米、インドミー(インスタントラーメン)、生理用品、缶詰を運びます。
積み込み次第すぐに出発です。今晩出発して、(休み無しで)12時間なので、明日の昼過ぎ頃に現地入りでしょう。
タルトゥンの銀行とメダンの銀行のコンピュータの接続が毎度の事ながら上手く行かず、本店に行き昼前に5000ドルのほぼ全額を現金で下ろしました。その足でオラガフード-Olagafood-に行き、日本で言うところのインスタントラーメン1箱40個入りを200箱(8000食)購入。古着200箱と共に10トントラックに積み込む作業が始まったのが夕方。ご存知のように入江先生宅入り口は道が狭いため、トラックが奥まで入ることが出来ず、ピックアップのピストン輸送4回行ないました。7時に入江先生宅を後にして、米を買いに行きましたが、予約を入れておいたにも拘らず、米屋が閉店しており、関係者に連絡をとってもらいシャッターを開け、30Kg 100袋積み込みました。バンダアチェに向かったのは運転手2名、デボラさん父、私の4名です。夕食をとったり運転手の準備などがあって、雨の中出発したのが10時過ぎ、睡眠休憩をとって、6日の夜明け前にはトラックはバンダアチェを目指していました。

1月6日6日 
道の状態は良好で何箇所か軍による検問がありましたが「アチェに救援物資を運んでいる」と告げるだけで、フリーパス状態。アチェは内戦が続いているため、数キロおきに軍が装甲車両を配備し、自動小銃を構えたインドネシア国軍兵士が警備に当たっています。途中何箇所かゲリラによって焼き討ちにあった学校などが建っており、アチェ出身の運転手に教えてもらいました。海沿いのロキシマウェ-Lhokseumawa-の手前から津波による傷跡が展開しており、非難住民のテントがあちらこちらに現れてきました。アチェは多くの住民がイスラム教徒ですが、学校を終え、大量の生徒たちが笑いながら騒ぎながら下校するという日常のすぐ隣に多くの避難民テントが張られているという非日常が双璧をなしていました。またイスラム寺院では定刻になるとコーランが流れ、多くの信徒が祈りをささげるという姿も何度も目にしました。バンダアチェに近づくと雨が降り出しました。
メダンから休み無しで車を走らせた場合だいたい12時間ほど掛かるそうですが、荷物満載でスピードも出さなかった私たちは18時間ほども掛かったでしょうか、ようやくGPIの事務所に到着したのが7時近い時間でした。GPIとはインドネシア全土のプロテスタント教会(アドベント・メソジスト・ペンテコステの一部を除く)のエキュメニュカル組織で、本部は牧師館。物資を倉庫に入れるとか話していましたが、雨足が強くなるので、急遽本部に運び込むことになりました。ジョンソンさんは数日前からここに滞在し救援活動のお手伝いをしていたのです。教会の青年たち10名ほどがどんどん荷物を運びこみます。警備のため迷彩服に銃を下げた兵士が立ち会います。荷物を運びいれ、トラックはすぐにメダンに戻るということだったので、簡単に食事を済ませ、雨の中市内を回りメダンへの帰路につきました。被害の大きかった場所は停電状態が続いており、ひとけもありませんでしたが、キャンプ周辺やあちこち電気の付いている場所には声が響き人が動き回っていました。多分日本で報道の中心になっているであろう、大打撃を受けた海沿いにはトラックは入ることが出来ませんし、時間も無かったのですが、そんな野次馬的なことが目的で出かけたわけではありませんから。デボラさんのお父さんはジャカルタから到着早々買出しなどに使われトラックで長時間揺られて疲労困憊されたので、アチェから飛行機でメダンへ戻ることとし、ジョンソンさんが選手交代になりました。

1月7日7日
アチェを出て数時間走り、睡眠休憩。夜間走行するとゲリラに襲われる危険性があるので、7時前から再びメダンを目指しました。両運転手の家族の安否を確かめるため2箇所の海沿いの村に立ち寄りましたが、両家族とも問題なし。反対車線の大量の警察関係車両、重機運搬トレーラー、各国からの支援物資運搬車両とすれ違い、そのたびに徐行、停止を繰り返しメダン到着が9時過ぎになりました。次回はまだ救援の手が入っていないというニアス島を予定しています。今回の運転手の話ではフェリーが出ているということなのでトラックごと島に入ることが出来ます。ただし一晩掛かるそうです。

写真は古着整理、ラーメン買出し、古着積み込み、米積み込み、デボラさん父からGPI関係者に引渡し(私が渡したときのものは写っていませんでした)、本部運び込み、運搬トラックと横断幕です。

とりあえずご報告まで。ニアス島への運搬についてはまたこちらで話し合ってから詳細を決めてお伝えします。

1月8日
9時過ぎにバンダアチェから戻りました。
来週はニアス島行きの準備をしています。シボルガからのフェリーは、出航が夜7時、着岸は朝5時ごろになるそうです。本日はニアス島救援物資受け入れ先の教会で先方の連絡先を教えてもらいました。今回は古着を中心に、飲料水、医療品を運ぶ計画を立て、薬品はすでに注文、飲料水も値段の確認を終えました。総領事館から提案のあった生理用品ですが、問屋に行きましたが揃えるのに時間がかかると言われ、見送りとなっています。

1月9日
大したことではありませんが、ピックアップで走っていたところ、並行して走っていたスズキ車にぶつけられました。止まるり気配が無いのでクラクションを鳴らし続け、路肩に寄せました。前のバンパーの後ろが少し傷つきました。運転していたのは若者で、その母親がしきりに謝っていました。若者は終始うなだれたままで、最後に「気を付けろよ」と背中を叩きました。結局彼は一言も発しませんでした。まったくもー。
明日朝から買出しなどに動き、火曜日夜にシボルガからニアス島に向かう予定です。電話回線が生きているのかよくわかりません。もし使えるようならコンピュータも持ち込みます。